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患者を死に至らしめた重監房
この週末、草津に行きハンセン病市民学会青年交流会に参加してきました。

草津の栗生楽泉園はどうしても一度行きたかったのですね。
というのもここは重監房というものが作られ、そこで何人もの人が亡くなっているのです。いかに「らい予防法」というものが非人間的だったかという象徴的な場所なのです。

自治会長の藤田三四郎さんが案内してくださりました。

重監房にはのべ90名ほどの人が入ったそうです。厳冬期は零下15度〜16度になるそうで、重監房に入れられた90名のうち収監中、あるいは衰弱して出てきて出所後に亡くなった人があわせて22名もいるそうです。ほとんどが凍死だということです。

一番重い罰則で30日だったそうですが、これはほとんど無視され一人平均130日も入っているそうです。そしてほとんどの人が仮死状態で出てきて、その後2 /3以上は病室で亡くなったそうです。

食事は1日2回、10時と3時おわんに一杯の麦飯と水が一杯。電気、水道なし当然暖房もなし。職員の控え室はあったが誰もいなく、屋根はとたん、床は木が敷いてあるだけで畳はない。広さは四畳半ほど、薄明かりが差し込むだけで昼間でも薄暗く、ふとんはせんべい布団が2枚。逃亡を防ぐため床は低くしてあり、そのため湿気がひどかった。

と想像を絶する待遇だったようです。

こんなところに裁判もなく反抗的とされた患者が収監されました。

どういうふうに収監されていったのか、「ハンセン病重監房の記録」(宮坂道夫著/集英社新書)にそのときの記述がありますので、少し引用させていただきます。

山井道太は東京の多摩全生園で洗濯場の主任をしていた。長靴を履いて作業をするのだが、患者たちに支給された長靴は、古くなって穴があいていた。末梢神経二障害を受け、手足の感覚を失っていることのことの多いハンセン病患者にとっては、足が水につかるのは耐え難いことだった。

〜中略〜

洗濯場の患者たちは、長靴を新しいものに取り替えてくれるように求めた。その要求を施設側に伝えたのが、主任の山井だった。しかし施設側はこれを拒んだ。そのことを伝えると、患者たちは作業をサボタージュした。これが施設側には許せないことだった。

1941年の6月6日の朝、山井は「どんさん、本館裏までちょっと」といって連れ出された。「どんさん」は彼の愛称だった。そのまま園長が指揮する二十名近い職員によって護送車で草津に送られることになった。信望の厚い患者であったため。多くの人が駆けつけたという。山井の妻が泣きながら職員に許しを請うたが聞き入れられなかった。



結局、山井さんは「7月18日に出獄を許された」のですが「衰弱が激しく「」9月1日に死亡した」そうです。

この重監房は1939年から1947年まで使われていたそうです。

長靴を要求しただけで殺されるということが、20世紀の日本の公権力により行われていたということですね。


重監房跡




栗生楽泉園


藤田三四郎さん
posted by iwajilow | 20:18 | ハンセン病 | comments(0) | trackbacks(0) |
「子どもを残させない」という政策の犠牲にされた人々…
昨日ハンセン病市民学会の分科会が多磨全生園でありました。



そこで強制堕胎の犠牲となった方の話を聞きました。

堤良蔵さんは国賠訴訟の裁判の後、「妹が胎児標本にされている」ということを取材クルーから知らされました。(ハンセン病の療養所で堕胎された胎児のうち100体以上が標本にされ残っていました)

「皆さんに問いたいのですが自分の兄妹が瓶詰めにされ標本にされている、そのように聞いたらどのように思いますか?私は反吐が出るほど愕然としました。

私は昭和16年に滋賀県から光明園に入園しました。4月に入りました。私はまだ10歳で子ども室に収容されました。それから2ヶ月経った6月になって母と弟が強制収容されました。弟は病気じゃなかったけど、彼は彼なりに未感染児童というレッテルを貼られて一生苦しみました。

母親は妊娠5ヶ月だったと思います。女の子だってわかるくらいでした。そして1ヶ月か2ヶ月したときに強制的に堕胎させられました。母がお腹大きいなと思っていたのですが、まだ子どもだったのでいつの間にか忘れてしまいました。

裁判の後、(標本にされていたことを)知りました。

処分されていたのだと思っていたけど、50年もの間、研究されることもなく標本にされていたんです。ただ埃まみれにされて瓶詰めにされていて…びっくりしました。

取材の人に写真を見せてもらって、その写真を見てなんともいえない気持ちになりました。

私としては1年でも早く葬ってもらいたいという気持ちでいました。でもその後各園で胎児の慰霊祭が行われるのでだいぶ長いこと待たされました。

こういう人権を踏みにじっていた社会ではいけないと思います。一方的な法律はもう作って欲しくない。らい予防法はらい者は撲滅して一般の人を守ろうという法律です。弱者の立場に立ったものではないでしょ。そういう法律はもう作って欲しくないと思います」

そして玉城しげさんはまさに強制堕胎された経験を語ってくださいました。


体験を語る玉城しげさんと上野正子さん

「私は同じ入園者の青年団活動をしている人を好きになって結婚しました。けれども結婚すると12畳の部屋に4組の若い夫婦が入れられました。なんの仕切りもない部屋に4組の夫婦が入れられて生活させられました。あの生活は惨めで言葉を尽くすことが出来ません。10年も続きました。

私は家に帰りたい、帰るつもりでいました。ところが持っていたお金は強制的に『預かる』と取り上げられました。これでは帰ることが出来ないので家からお金を送ってもらいました。そのお金も取り上げられ一銭も手にすることが出来ませんでした。代わりに園で使えるお金と言ってブリキのお金を渡されました。

そのお金では帰れない、どうすることもできない。どうしても帰りたいと思ってお金を返してください、とお願いしました。すると『小娘のクセに生意気なことを言う』と怒鳴られました。職員が足を叩いて威圧します。

私はお金をくださいと言っていたのではありません。自分のお金を返してくださいと言っているのに、なんでこういうことをされないといけないんだろうと思っていました」

そしてしげさんは妊娠します。

「何べんはなしても心から消えることはありません。こんなことしていいのか、女にとってあの屈辱は忘れることは出来ません…」

ずっと堕胎を拒んでいたのですが、夫が留守の時にそれは行われたそうです。そのときしげさんは妊娠7ヶ月でした。

「まな板の上に乗せられた鯉というのでしょうか。手も足もくくられて足を叩かれ手を縛られて看護婦が私の頭を掴んで…そこで器具がガサガサと音を立てます。

金具が置いてあるんですよ、魚を釣るような、鍵のような…。何だろうと思ったら、それが女性の大事なところ、堕胎の、突っ込んで引き出すっていう…

私は頭から血が上って真っ白というか、気を失ってしまったんです。その間に子どもを引き出されました。

大きなお盆の中に赤ちゃんが仰向けにされてまだ生きているんです。

看護婦さんが『しげちゃん、しげちゃん、本当は見せたらいけないんだけど、かわいい女の子の赤ちゃんですよ、一目見なさいよ』って。

見ると髪の毛が真っ黒で10枚くらいのガーゼで鼻と口を押さえられて…あの赤ちゃんのもみじの手はそのまんまなんですね。髪の毛も真っ黒で手と足を上に向けてバタバタしているんです。

もう言葉が出なくて…。

あれが断末魔の苦しみというのでしょうか。息が出来ないんですよね、大きな手で押さえられているから。ただバタバタするだけで…。人間のすることじゃないです。

私は堕胎した女医さんと婦長さんは恨んでも恨みきれないです。

これは忘れることはできません」

言葉もありません。。




多磨全生園
posted by iwajilow | 23:51 | ハンセン病 | comments(0) | trackbacks(0) |
ハンセン病問題は終わっていない
すでに01年の国賠訴訟の勝利判決でハンセン病問題は解決していたと思っていましたが実はそうでもないらしい。

と昨日開かれた、ハンセン病市民学会を覗いてきました。

ハンセン病療養所で暮らしている方々は自分たちの療養所が閉鎖されてしまうのではないかという不安の中で生活をしている、ということがわかりました。

僕が覗いたのは「今なぜハンセン病問題基本法なのか」というシンポジウムです。

ハンセン病問題基本法はこの療養所の将来像とハンセン病問題を風化させないという2つを中身としているそうです。

シンポジウムは全国ハンセン病療養所入所者協議会事務局長の神美知宏さんや志村康菊池恵楓入所者自治会副会長、徳田靖之ハンセン病国倍訴訟西日本弁護団代表、東俊裕日弁連差別禁止法調査研究委員などの出席で行われました。

まず神さんが現時点の療養所の置かれている状況を数字を使って説明してくれました。

それによると今年の2月1日時点での全国13の療養所で入所者数は2764人だそうです。これは1年前に比べ170人の減少、過去5年で944人の方がなくなっているそうです。
現在の入所者の平均年齢は79.55歳、果たして自分があと何年生きられるだろうかと考えながら暮らしているそうです。

全国で入所者が150人以下になっている療養所は6箇所だそうです。

多いときは年間200人が亡くなり、10年すると入所者は500人から600人になるのではないかと考えられています。

そういった中、「厚労省は今後のあり方について何も明らかにしない。毎年話をしているが予算も職員もどんどん削っている状況」だそうです。

神さんは「これは立ち枯れ政策」または「自然消滅」を狙っているのではないかといいます。

つまり、この医師不足、看護士不足、さらに全般的な医療費抑制という中でハンセン病療養所も職員に欠員が出ても補充しない、という状況を作って閉鎖を狙っているんじゃないのか、ということです。

実際、徳田氏は大島青松園の方が
『何年か経ったら人数が少なくなり移れといわれるに違いない。だからその前に早く死にたい』といっているという話をしていました。

なぜこういう状況に追い込まれるかというと、現在の法律では「ハンセン病療養所は入所者以外には使わせない」となっているからだそうです。

これを「入所者が望むのであれば地域の方に開放すことができる」とするのが今回の「ハンセン病問題基本法」の中身のひとつです。

神さんは
「お年寄りが今ほど社会に見放されている時代はないのではないか、ひとつの選択肢として行き場を失った高齢者が人生の最期を私たちの療養所で一緒に過ごすというのはどうなのだろうか。療養所には何年も積み重ねてきた介護の実績もある。十分ではないが医療施設もある。高齢者が過ごす環境としては整っているのではないか」
と話します。

この法律を成立させて療養所ごとの将来構想を作りたいと話していました。

また「基本法」では療養所の医師、看護師、介護員を確保することを条文に入れたいとしています。

最終の法案の第二章は「国立ハンセン病療養所などにおける生活及び療養の保障」となっていて、その第7条第二項です。

「国は入所者に対し社会の中で生活するのと遜色のない生活及び医療の水準を保障するため財政上の措置を講ずるとともに国立ハンセン病療養所の生活環境及び医療体制の整備を行うものとする。また国はその実現のために充足すべき医師、看護師及び介護院の確保に必要な措置を講じなければならない」

医療費の抑制が叫ばれ、後期高齢者医療制度なども始まりました。そういう状況の中なので明日の見えない入所者の方々は不安を抱え過ごしているそうです。

ハンセン病問題はまだ終わっていません。


posted by iwajilow | 07:24 | ハンセン病 | comments(0) | trackbacks(0) |
ハンセン病差別の記録「新・あつい壁」を見に行く
ハンセン病のことを何度か取材をしているにも関わらず、僕はこの映画のベースになった『藤本事件』を知りませんでした。

こんな悲惨な事件が本当にあったとは…。


藤本事件HPより

藤本事件は、容疑者がハンセン病患者であったために捜査、公判、上告及び死刑執行の過程で患者に対する偏見と差別が影響し、公正さの欠如した裁判という疑いが暗い影をおとし、わが国裁判史上に問題を残す事件である。
 昭和26年8月1日、熊本県菊池郡水源村、農業・藤本算(当時50歳)宅へ竹にダイナマイトをくくりつけたものが投げ込まれ、算と二男公洋(当時5歳)に、それぞれ全治10日間、一週間の負傷を負わす事件が発生した。この事件の容疑者として同村の藤本松夫(当時29歳)が逮捕され、昭和27年6月熊本地裁の菊池恵楓園出張裁判で懲役10年の判決を受けた。裁判では、被害者の算が同村役場に勤務中、熊本県衛生課のハンセン病調査に際し、松夫を患者として報告、そのため松夫は突然菊池恵楓園への入所通告を受け、平和な生活を脅やかされたのは、算の密告が一切の原因と恨み、凶行に及んだとされた。
 これに対し、松夫は、無実を主張、福岡高裁に控訴したが、控訴は棄却された。有罪の物的証拠として爆破に使った導火線やひもと同じ者が家宅捜索で発見されたこととなっていたが、松夫や家族の話によれば、家宅捜索の際には何もなかったのに、あとで警察に呼び出された際、自宅からでた証拠物件だとして見せられて驚いたといっており、はじめからあいまいな点が多い事件であった。
この後、松夫は菊池恵楓園内の拘置所に収容されたが、昭和27年6月15日、拘置所を脱走し、指名手配された。ところが松夫が行方不明中であった同年7月7日朝、水源村の山林で算が上半身に20数箇所の切刺傷を負い、惨殺されているのを小学生が発見した。その数日後、松夫は付近の山畑で逮捕され、昭和28年8月29日熊本地裁の出張裁判で死刑の判決を受け、同年12月1日福岡高裁に控訴、5回の出張裁判の後、昭和29年12月13日控訴が棄却され、原審どおり死刑を宣告された。
 この裁判の経過と判決に対して、松夫と同じ病気に悩み、苦しめられてきた全国の療友は大きな疑問を抱き、全国ハンセン病患者協議会(全患協)は公正な裁判を要求して松夫の救援に立ち上がった。全患協は貧しいなかから資金を出しあい救援と裁判の費用を集め、第二審判決を不服として、昭和30年3月12日、自由法曹団の弁護士らによって最高裁判所に上告したが、2回の口頭弁論の後、昭和32年8月13日上告は棄却された。弁護団は、直ちに判決訂正申し立てを行ったが、この申し立ても却下されたため、再審請求を第一審の熊本地裁に提出した。一方、漸く事件の重大性を知った社会各層の人々により、昭和33年には「藤本松夫を救う会」が発足し、全患協とともに松夫の救援を行うようになった。昭和37年には、この会による現地調査が始まり、運動が次第に盛り上がっていく中、再度再審請求の手続きがとられたが、昭和37年9月14日、突如として松夫は処刑された。
 この事件は、有罪、無罪両面共、裏付ける積極的な立証が極めて困難な事件であったが、被告は逮捕直後の自白を除いては終始一貫、犯行を否認、無実を主張していた。また、主要な証拠とされた松夫の叔父、叔母の証言、凶器とされた短刀の鑑定、凶器につぐ重要証拠とされた被害者の血痕が着いたとされた松夫のタオルとズボン、いずれについても証拠能力の疑わしいものであり、納得できない点が多くある。
 日本においては、人命尊重の観点から、第一審で死刑の判決を受けた被告の再審請求を受理するのがほとんど通例となっているのに、松夫の場合は却下されている。また、被告が再度再審請求の手続きをとっている段階で突如死刑が執行されたことも異例であった。こうしてこの事件は、多くの問題を残したまま、歴史の闇に埋もれていった。


この事件をできるだけ忠実に再現しようとしたのが、この映画です。
不条理さに圧倒されてしまいました。

しかしこの差別は決して過去の話ではなく現在に続いていると言います。
今日の上映会で挨拶をした全国ハンセン病療養所入所者協議会の事務局長、神美知宏氏はこう言っていました。

「昭和33年頃(この事件の減刑運動が始まった頃)全国のハンセン病療養所にはおよそ1万2千人が入所していました。現在、入所者の平均年齢は78.8歳、入所者は約3000人です。その入所者たちは日本の社会の中に存在するハンセン病の偏見と差別をなくしたいと思っています。今もなお隔離された壁の外では家族が差別と偏見に戦々恐々としています。私たち入所者の願いは自分の人生の幕を閉じる前に故郷に帰って墓参りをしたいということです。しかし未だに誰一人として故郷から声はかかりません」

家族や親戚は未だに身内にハンセン病患者がいることを隠しているそうです。神さん自身も自分がいるために30代の親類が嫁にいけないそうです。

01年の熊本地裁判決ですっかり終わったと思われているハンセン病問題ですが、まだ終わってないのですね。

この映画の中で元ハンセン病患者のホテルへの宿泊拒否事件の時に、元患者に対し非難が殺到したというエピソードが出てきます。
曰く「税金で食べているくせに」「ホテルが謝ったのだから文句いうな」「俺はリストラされた。俺が療養所に入りたいくらいだ」
恐ろしいほどの無理解だと思いました。

映画の中では「格差社会が広がって弱い人たちがもっと弱い私たちを攻撃するようになった」と入所者が語っています。

なんとも悲しい世の中です。


舞台挨拶をする中山節夫監督。後列右から出演のケーシー高峰氏、倉崎青児氏、小倉一郎氏、趙ο損瓠安藤一夫氏。

[事件については藤本事件のHPへ]
posted by iwajilow | 01:07 | ハンセン病 | comments(0) | trackbacks(0) |
中国のハンセン病患者の実態
ひょんなことで中国のハンセン病患者が暮らす「快復村」でハンセン病患者たちの支援活動をしている原田僚太郎さんという方を知り、その一時帰国報告会に行ってきました。

「快復村」の存在は知ってたのだけど、実態はあまり知らなかったののでかなり驚いてきました。

中国には「快復村」と呼ばれるハンセン病患者が政府によって集められてできた村が600以上あるそうです。

けれども、「快復村」とは名ばかりでとんでもないところだそうです。コンクリートむき出しの建物に鉄格子がはめられているような家に集団で住み、村には医者はおろか、看護士すらいないそうです。なので患者たちは怪我や病気をしたら、それを天命と思って治そうとすらしない、どんどん悪化し歩けなくなったりしていく人もいるのだそうです。

子供たちもいるそうですが、その子供たちには戸籍もなく、なので学校にいったこともなく、読み書きも出来ず、シャワーすら浴びたこともないという衛生状態のなかでただ生きているという状況だそうですよ。

またそういった村の中には、ハンセン病患者たちが村を脱走して作った村もあり、当然脱走して作った村だから隠れるようにすんでいるため、その存在すら知られてないんだそうです。

また中にはハンセン病患者たちが露天で石炭堀りなどをやらされているとことろなんかもあるそうですが、その実態はまだまだ全然わかってないそうです。

で、原田さんという方は、そういった村々を廻って、トイレを作ったり、体を洗ってあげたり、傷口を消毒したりという救援活動を続けているのですが、なんとも中国人の方と結婚し、今は中国に住み着いて、活動を続けているのですね。

中国のことなんか放っといて自分の幸せを考えるほうがいいというのも生き方なんですが、知っちゃったものは見捨てるわけにはいかないのだろうなー。

そういう活動を地味に続けてると、この奇特な方を応援しようという不思議な輪が広がり、なんと日本のハンセン病患者の小牧さんなんかは目も悪いし、歩くのままならないのに、原田さんと一緒に快復村を訪ねたりして、何ヶ月も一緒に暮らしたりと、だんだんすごいことになりつつあるのですね。

原田さんは平塚出身ということで、「おりゃ、わひは二宮ですだー」ということで勝手に身近に感じたりして、僕の「ウオッチングしていきたい人リスト」に書き込ませていただきました。
要注目の人物だし、中国のハンセン病の実態もかなり興味津々です。

報告会は31日にもあるので興味あるなーと思った方はぜひ行ってみて下さい。

報告会
日時:31日 午後6時半〜
場所:新宿区西早稲田 早稲田奉仕園
参加費:500円
問い合わせ:大竹財団事務局 03(3272)3900


posted by iwajilow | 11:50 | ハンセン病 | comments(0) | trackbacks(1) |
ハンセン病青年交流会に行く
26日〜27日まで静岡の駿河療養所で行われたハンセン病青年交流会(青年というには、ちと恥ずかしい年ですが…)に行ってきました。


青年交流会の様子 挨拶しているのは全国ハンセン病療養所入所者協議会の神美知宏事務局長

国内のハンセン病療養所に行ったのは初めてだったのですが、解剖室があったり、監禁室のあとがあったりひどいもんです。

そして、今ハンセン病療養所に入寮している方は高齢化が進み、このまま入寮者が減り続けると、介護や看護、医療が受けられなくなるのではないかと非常に不安に思っているということがわかりました。

国としては明確な指針を出していないそうです。

入寮者の方たちは人数が少なくなれば声も小さくなるので、自然消滅することを待っているのではないかと、国に対して大きな不信感を持っています。

すっかり解決していたと思っていた自分の認識の甘さを反省しました。


ところで案内してくださった小鹿さん、機会を作ってくださった「紅の熊」さま、「コボコボ」様、ありがとうございました。大変勉強になりました。

駿河療養所の施設がメインですが写真をアップしました。興味のある方はどうぞご覧ください。

posted by iwajilow | 22:37 | ハンセン病 | comments(2) | trackbacks(0) |