Search this site
TVディレクターがメディアでは伝えられないニュースの裏側を日々レポート。
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

posted by スポンサードリンク | | - | - | - |
イラクの学生と日本の学生との対話
JUGEMテーマ:日記・一般

ヨルダンに滞在中の高遠菜穂子さんから
「東京の大学生たちがイラクのバグダッドの学生た
ちとテレビ会議をします。今日のバグダッドからの電話では、
日本とのトークイベントに参加希望者が定員をはるかに超える300
名も来たそうです」
との連絡を受けました。

日本の会場になったのは慶応大学の三田キャンパス。
昨日の16時からイベントが行われ日本からも
100名近い学生が参加していました。

まずはじめに日本から今回の地震、津波と福島の現状報告が行われました。

イラクから黙とうが捧げられました。

イラクでも日本のこの災害は毎日報道され
毎日、学生たちの話題になっているそうです。

初めにイラクの学生からはこのような発言がありました。
「日本の津波はとても悲しい出来事です。
しかしイラクは毎日『津波』のような問題に直面しています。
日本で起きていることはもちろん悲しいですが
イラクで起きていることも思い出してほしい。
そしてそれだけでなく行動を起こしてほしい。
日本もイラク戦争に加担してきたわけですから
日本の政府の責任と追及してほしい」

しかし、その後は地震や放射能被害のことではなく
イラクで毎日起きている問題でもなく
お互いの大学生活や文化の話題に移っていきました。

高遠さんはイラクにも劣化ウラン弾の後遺症の問題があり
「イラクは長年にわたり内部被ばくにさらされてきました。今私た
ち日本人が直面している原発災害の問題と非常に多くの共通点
があります」と期待されていたようですが
話はそっちには膨らんでいきませんでした。

ただ今の生の大学生の声を聴けたのは大変貴重だと思いました。
毎日、毎日戦争や占領やテロや放射能被害のことばかりを考えているわけではなく
日常生活があるわけです。
文学やアニメやサッカーが彼らの生活の中心だったりするわけです。
そういう普通さを知ることができてよかったと思います。

僕はイラク人学生のこんな発言が印象に残りました。
発言したのはファルージャ出身の学生です。

「アメリカの占領によってファルージャがどうなったかは
日本の皆さんも知っていると思います。
ファルージャは長崎や広島のようになりました。

そういったところから日本は復興しました。
日本は戦争からどういったことを学びましたか?」

実はきっと、いうほどファルージャの悲劇は日本では
知られてはいないんですよね。


昨日 慶応三田キャンパス


黙とう


イラクの女子大生






posted by iwajilow | 05:50 | 中東に平和は? | comments(4) | trackbacks(0) |
ガザの虐殺から1年
明日27日でイスラエル軍によるガザの虐殺開始から1年が経ちます。

イスラエルは「ガザからのロケット攻撃に対処する適切な攻撃」としているそうです。しかし「家を返せ」と竹やりで迫ってくる人々に対して原爆を落として全滅させるような攻撃が、正当とは僕はちっとも思えません。

さて、本日築地本願寺で「パレスチナに生命の光を」というイベントが開かれました。その中で現地ガザに入っているNGOの方からの生電話報告がありました。

その報告によると、現在もイスラエル軍の攻撃で破壊された家は半分くらいがそのまま、半壊の家や密集地で破壊された家はほとんどがそのままの状態だそうです。重機などが使えず、ハンマーなどを使い手作業で家の解体作業を進めているので、1年経っても手付かずのところが多いそうです。

また現在も封鎖が続いているために建築資材が入ってこないそうです。そのため半壊の家は使える部屋を使って人が住んでいる。黒焦げの部屋にも人が住んでいる。ガラスはイスラエルが搬入を認めていないので、ほとんど手に入らない。窓にはガラスの代わりにビニールや板や段ボールがはめ込まれているそうです。医療施設の窓にも幼稚園の窓にもガラスはないそうです。

プロパンガスの値段は2年前に比べ2.5倍に値上がり、毎日10時間以上の停電。電気が止まると上下水道も止まり、お湯も沸かせない。失業率は45%。徹底的に破壊されたインフラは1年たった今も復旧されていないようです。

集会の最後には「FREE GAZA」というキャンドル文字が作られました。

ガザ攻撃で殺されたパレスチナ人は1300人、1万人が家を失いました。一方イスラエル側の犠牲者は13人でした。

そして未だにガザの封鎖は続いています。





posted by iwajilow | 23:12 | 中東に平和は? | comments(0) | trackbacks(0) |
絵を描くことの好きな、イラクの少女が、死んだ
サブリーンという少女がいました。

イラクでの米軍による大規模作戦が終了して2年後の2005年、彼女は眼のガンを発症し、右目の摘出手術を受けました。まだ11歳でした。

貧しかった彼女はそれまで学校に通うこともできず、字も知らず、絵を描くことも知りませんでした。

日本のNGOが運営していた病院の院内学級で、始めて字を知り絵を描くことを知りました。

そこで治療を受けながら院内学級に通い彼女は絵を描く喜びを知っていきました。

NGOのスタッフは彼女の絵の素晴らしさを伝えようとチョコレートのパッケージにしました。

そのチョコレートは評判を呼びました。

2007年のバレンタイン、NGOのスタッフが「100個くらい売れるかなぁ」と思っていたチョコレートは5000個売れました。そしてその収益はイラクの子供たちを救う医薬品を購入するお金に使われました。

ところが2007年3月がんが再発しました。「どうせ死ぬのなら、もう治療はいやだ」と彼女は治療を拒否しました。
NGOのスタッフは彼女の絵がパッケージになったチョコレートを見せ説得します。「君の描いた絵がチョコレートになり、多くの子供たちを救っているんだよ」。彼女は自分の生きている意味を見つけ、再び治療を始めました。

2008年、そのチョコレートは7万個売れました。

彼女はいつか絵の先生になることを夢見ていました。「院内学級の先生になってイラクの子供たちを助けていきたい」。ささやかな夢でした。

しかし2008年、11月がんがまた再発しました。
イランで放射線治療を受けたものの病状は悪化、2009年9月には両目が見えなくなりました。

「私は夢も希望もなくなった。もう絵が描けない」

そして2009年10月16日、静かに息を引き取りました。15歳と8か月の短い人生でした。

最期に聞き取れないほどの小さな声でこう話したそうです。

「私は死にます。でも幸せです。私の絵がチョコレートになってイラクの他の子供たちを助けてあげられる。みなさんありがとう」


今日、その彼女のお別れ会が開かれました。
会場には彼女の絵がたくさん飾られました。








彼女は生前、自分が目の病気になったのは「アメリカの落していった爆弾のせいじゃないかな」と言っていたそうです。

今もイラクではたくさんの子供たちが白血病や先天性異常で苦しんでいます。因果関係は明らかにされていませんが、明らかに戦争のあと、こういった病気の子供たちが何倍にもなって増えてきたといいます。

先生になりたかった、普通に生きたかった、恋もしたかった。

サブリーンの絵をパッケージにしたチョコレートは今年も売りに出されます。収益はもちろんイラクの子供たちの医療支援に使われるそうです。


サブリーン


サブリーンの最後の絵


チョコレート








posted by iwajilow | 22:10 | 中東に平和は? | comments(2) | trackbacks(0) |
イラクは奇形児だらけになっているらしい
たくさんの方にご心配をおかけしましたが
体調は回復に向かいつつあります。

ただ寝不足が続いたので、フラフラになっていましたが
ここ数日は6時間くらいの睡眠はとれているので大丈夫です。

できれば20時間くらいまとめて寝たいのですが
どうも、最近の経済情勢はドカ寝を許してくれないので仕方ありません。

そうこうしているうちに市橋容疑者が逮捕されました。

そういえば、僕はこの事件発生当時に取材したことを思いだしました。

ただ、僕は第1報の取材だけだったので、被害者の人となりや事件状況だけを取材しただけでした。その中でも印象的だったのは、市橋容疑者は被害者に声をかけて、自転車で自宅へ向かう被害者を走って追いかけたというリポートをとった気がします。

おって細かい事実も明らかになってくると思いますが、もし本当にそうだとしたらものすごい体力というか執念というか…。もっと別の方向に役立てることがどうしてできなかったのだろう。。

彼が逮捕されたからといって被害者のご遺族の悲しみが癒えるわけではありませんが、真相解明の大きな一歩だとは思います。

謹んでご冥福をお祈りいたします。


さてそんな逮捕劇を知ったのは、大阪のジャーナリストの西谷文和さんと話をしている時でした。

西谷さんはそもそも地方公務員でした。しかし44歳のときに退職してジャーナリストになったというちょっと変わった経歴の持ち主です。3人のお子さんと奥さんを養いつつ、安定した仕事に見切りつけ、フリーのジャーナリストになるなんて並大抵の根性ではできません。

そして、彼はジャーナリストという仕事の傍ら、「イラクの子供を救う会」を主宰し支援物資やお金を届けたりというイラク支援もされています。芯から正義感が強く心のやさしい方です。

そんな西谷さんが10何回目かのイラク取材から帰国したということで話を聞きに行ってきました。

現在イラクでは先天性の異常児が増えているそうです。口唇口蓋裂の子供、指がくっついてしまっている子供、歯が生えない子供。また子供の白血病が急増、ある病院では入院患者の8割が白血病だそうです。

もちろん何が原因かは全く明らかにされていません。ただイラク戦争後に急増したのは間違いありません。アメリカ軍の使った劣化ウラン弾はアメリカの発表では人体に影響がないそうです。

僕は西谷さんの撮ってきたVTRを見て、以前、インドのウラン鉱山の村を取材したときのことを思い出しました。

そこではあちらこちらに指のない子供や、足がない子ども、指が肘あたりから出ている子供、口唇口蓋裂の子供、巨頭症のこどども、ありとあらゆる奇形児がいました。

なんでウラン鉱山のそばの村とバクダットが似ているんでしょう。不思議です。

さらに現在のバクダット上空には市民を監視する米軍の無人飛行船が24時間飛び、米軍車両が通ると携帯電話が切れ(携帯電話を使った爆弾を恐れるため米軍車両が妨害電波を出しながら走っているそうです)、地域によっては電気が通るのが1日2時間のみなんてところもあり(産油国なのに!)、米軍にフェンスで囲まれてしまってパレスチナのようになってしまった地域があり、墓地が足りなくなり公園まで墓地になってしまったりという状況だそうです。

自衛隊はイラクで米兵のタクシーをやっていたということは、僕らもこういうことに対して加担しているってことですね。

その西谷さん、なんで東京に来たのかというと、明日の報道ステーションで西谷さん取材のアフガンが放送されるからだそうです。

渾身のアフガン取材、楽しみにしています。


西谷さん
posted by iwajilow | 22:17 | 中東に平和は? | comments(0) | trackbacks(0) |
イラクを忘れない
昨日はかなりしんどかったのですが、一晩寝てなんとか起きられるようになりました。ご心配おかけしましたが、なんとか動ける状態になりました。まだちょっときついあたり、よる年には勝てないということなのかなぁとちょっと寂しくなったりしてもいます。

さて今日、沖縄で普天間基地の移設に反対する県民集会が行われました。
本当は沖縄に行きたかったのですが、まぁ無理はしませんでした。


普天間県内移設を拒否/県民大会「基地ノー」決議

 米軍普天間飛行場の県内移設反対を日米両政府に示す「辺野古への新基地建設と県内移設に反対する県民大会」(主催・同実行委員会)が8日午後、宜野湾海浜公園屋外劇場とその周辺で開かれた。2万1千人(主催者発表)が会場を埋め、共同代表の伊波洋一宜野湾市長や翁長雄志那覇市長、各政党の代表らが普天間飛行場の早期閉鎖・返還や県外・国外移設を求めた。
(沖縄タイムス09.11.09より)


僕は東京・銀座で行われたデモ行進を見に行ってきました。参加者は500人ほどでした。





「普天間基地を知っていますか?」というデモ隊の問いかけに「知りませーん」と揶揄する女子高生だか女子大生がいました。

知らないことは決して威張れることではないと思いますが、今のお子さんたちはそんなものなんでしょう。そして、同時にそれは大人たちのことでもあります。

佐藤優さんの著書に書いてあった「日本の実質的な識字率は5%だから」という言葉を思い出しました。

さて、沖縄の基地とイラク戦争は直結しています。


沖縄 戦場直結
米海兵隊、相次ぎイラクへ 戦死者今年4人

 沖縄からイラクへの米海兵隊部隊の出動が続いています。先月、普天間基地(同県宜野湾市)のヘリコプター部隊が派遣されたのに続き、今月は同基地から防空部隊が出発しました。今年に入り、沖縄の海兵隊員の戦死者は四人。沖縄がイラクの戦場に直結している実態が鮮明になっています。
(2007年2月21日(水)「しんぶん赤旗」より)


日本の基地から出撃した米軍が武器すら持たぬイラク人を好き勝手に殺していました。

今日「イラクに咲く花」というイラク支援NGOによるイベントも明治大学で開かれていました。

この中で田保寿一さんが作った「冬の兵士」というイラク帰還米兵のドキュメンタリーが上映されました。

田保さんは僕の大先輩で、ものすごい取材力に長けた方です。あの湾岸戦争の時の「黒い水鳥」の被害がイラク軍によるものではなく、多国籍軍によるものと暴いたのは田保さんです。



その田保さんの作品ということで楽しみにしておりました。

イラク帰還兵の痛切な告白に田保さんの取材した当時のイラクの映像が効果的に挟み込まれ、見ているものの心をえぐります。改めて怒りが沸々と湧いてきました。

「大きな袋を持った女性がチェックポイントに向かって歩いてきた。不審だと思ってマシンガンで撃ち殺した。袋の中は食べものだった。私たちに食料を届けようとした女性を撃ち殺したのだ」

「チェックポイントに向かって走ってくる車があった。スピードを上げているようだったのでマシンガンで200発撃ち込んだ。中には父親と母親と3歳の男の子、4歳の女の子が死んでいた」

「倉庫から出てきた男がいた。撃ち殺した。その倉庫はあやしくも何ともなかった。スナック菓子の倉庫だった」

「息子といた父親の首を撃ち落とした。首のない死体が転がって、その横に誰かが立っていた。僕は誰だか分らなかった。後から聞いたらそこに立っていたのは息子だったそうだ。あまりに残忍なことをしたために、記憶が飛んでしまったのだ」

イラクでは交戦規程はどんどん変えられていったそうです。

最初は明らかに攻撃の意思を持つ者、攻撃してくる者に対して交戦権が認められていただけだったのが時とともにゆるくなります。

携帯電話を持っているものは敵とみなして殺せ
→双眼鏡を持っているものは敵とみなして殺せ
→何もしてなくても走っているものは何かを画策しているから殺せ
→白旗を上げて命令に従ってもワナだと思って殺せ

まぁ、無茶苦茶です。

ファルージャの少女が「お父さん!」と泣き叫んでいる姿が目に焼き付いて離れません。

こんなイラク戦争を支持していたのが小泉政権です。とても恥ずかしい。


田保寿一氏

高遠菜穂子さんも来てました。
久しぶりに会ったら「痩せた?」と言われ、疲れを引きずっているなぁと反省しております。

高遠さんによると、報道されないだけで今でも10人規模の犠牲者の出る攻撃は頻繁にあるそうです。高遠さんは先月もイラク北部のスレイマニアに行ったそうですが、その時も幼稚園で爆弾が爆発して1名だけ園児が助かり後は全員死亡なんてことや、財務省で爆弾が爆発して犠牲者が出た、なんてことがあったそうです。

スレイマニアで会議をしているときに、ちょうど財務省の爆破事件の情報が出席者の携帯に入ったそうです。彼の知人女性の顔面がグチャグチャになり、持ってあと数日という報告だったそうです。それでもイラク人は明るい、と高遠さんは言います。

「みんな家族を亡くしたり、友人を亡くしたりしているけど、イラク人はよく耐えていると思う。みんな明るいんですよね。そういう状態にあるからなのかもしれないけど、みんな冗談を連発する。私が事件後、日本で暮らしにくい状態にあった時もおなががよじれるほど笑ったのはイラク人と一緒にいる時でした」

また行かなきゃなぁ、と改めて思いました。


posted by iwajilow | 17:44 | 中東に平和は? | comments(1) | trackbacks(0) |
ハマス相手にせず…一方的停戦の意味は?
※わかりにくいということだったので1月20日主旨を損なわないように整理、加筆しました。

一方的停戦というのはどういう意味なのでしょうか。先日JVCの集会で講演してくださった臼杵陽日本女子大学教授のお話にヒントが隠されているような気がします。
大まかに、こういう話でした。

パレスチナ・イスラエル紛争という言い方…
まず、私たちがパレスチナとイスラエルの問題を考えるときに我々の認識を規定している言い方があるんです。つまり「パレスチナ・イスラエル紛争」という言い方をすると紛争の当事者が同じような立場で争っているというイメージになってしまう。そして「暴力の応酬」というときには「お互いにやり合っている」というイメージになります。メディアが「双方に自制を求める」と言うことで問題の本質を見間違ってしまうことにまず気がつかなければなりません。

つまり「パレスチナ・イスラエル紛争」というのは基本的に「非対称的な不均等な争い」です。そもそもイスラエルとパレスチナを同じ土俵に上げることが「間違った認識」であると思っています。


「ユダヤ人は2000年間流浪の民だった」というのはウソ?
この問題の根源はどこからはじめるかということに関わってきます。2000年来のアラブとユダヤの対立というのはイスラエル側の作り上げたひとつの歴史観です。イスラエル側から見ればそういう歴史観が出てくるわけです。ところがアラブ人、パレスチナ人から見たときにはそういう歴史観は見えないわけです。

「ユダヤ人が2000年間流浪の民であった」というイメージも実はシオニズムが作り上げました。シオニストがパレスチナに戻るための比ゆとして使われているんです。

シオニズム…イスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建しようというユダヤ人の運動


イスラエル側は「この地域にずっと住み続けてきた。その結果としてイスラエルがあるんだ」「この土地から離れていないんだ。多くの人が離散をしているけどパレスチナに戻ってくる」と言います。

しかし少なくとも前近代においては、ユダヤ人たちは自分たちを「民族としてのユダヤ人」と思ってはいませんでした。彼らは「信仰の共同体」としての「ユダヤ教徒」であって、「民族としてのユダヤ人」とは思っていませんでした。そしてそれぞれの土地で市民としてその土地に根付いて暮らしていました。

19世紀にはいってから、ナショナリズム、つまり自分たちの国家を作らないといけないと考えてしまうユダヤ人たちが出てきます。そういう人たちが移民をしてきます。その移民をしてきた場所に住んでいるのは圧倒的多数がモスリムです。そしてキリスト教徒もいればユダヤ教徒もいました。そこにシオニズムが持ち込まれます。

少数派だったユダヤ人
去年はNAKBA60周年でした。それに対してコインの裏表としてイスラエル建国があったわけです。その当時イスラエルの建国された場所にどれくらいユダヤ人がいたのか、あるいはどれくらい土地を持っていたのかというと圧倒的に少数派でした。


1947年の決議された国連のパレスチナ分割決議案というのがあります。地図に境界線が引かれている、つまりユダヤ人国家に指定された地域というのは人口的に見てぎりぎりユダヤ人のほうが多いという国家なんですね。

単位面積当たりの人口を比べていって51人と49人だったら、そこがそのままユダヤ人国家になっちゃうわけです。そうなってくるとほとんど半分近くがアラブ人のままで建国されていく。こういった欺瞞があるわけです。



1947年の分割案(黄色がパレスチナ地区)


現在のパレスチナ(薄灰色)
ウキィペディアより

そこをあたかもユダヤ人が圧倒的多数だったというイメージでイスラエル国家が建国されていると考えてしまう。地図の魔術で、すでにユダヤ人が国家を作る条件があるんだと勘違いしてしまうのです。


イスラエルはこれを深刻な事態と考えたわけです。少なくとも建国された48年にはユダヤ人国家をそのまま作ると、ユダヤ人が多数派になれないユダヤ人国家になるという恐れがあったんです。そのときに何をやったかというと、例えばデイル・ヤシーン村の虐殺事件。この虐殺事件が起こってパレスチナ人社会はパニックになるんですね。アラブ側の失態というのもありました。それはメディアがレイプが起こったとか過剰に報道しある種のデマとして流れました。それがパニックをさらに大きくしました。

デイル・ヤシーン村事件
1948年4月エルサレム西部のデイル・ヤシーン村で起こった虐殺事件。ユダヤ人部隊が老人、女性、子供も含む村民たちを虐殺した。100人から200人の村民が犠牲になったといわれている。


イスラエル側にとってこれは非常によかったわけです。なぜかというとパレスチナ人たちが自発的に難民になってくれた。そしてイスラエル国家の境界線を引いたときにそこに難民が戻ることを許さないとした。そこにできたイスラエルという国はユダヤ人が多数派になった国家になった。これがNAKBAといわれる事態なわけです

つまりシオニズムという考え方でユダヤ人が多数派になるようにとにかく色々なことをやる。暴力的な手段で追い出したことも今どんどん明らかになっています。現在に至るまでイスラエル側は虐殺を否定しています。しかし何度も繰り返されている議論です。今、ガザで行われていること、これをイスラエルは自衛といっています。

なぜ交渉をしないのか?
「民なき土地に土地なき民を」イギリスのシオニストの有名な言葉です。現地にアラブ人が住んでいることはよくわかっていました。けれども見て見ぬふりをした。これは労働シオニズムの特徴的な一番の基本です。そこにはパレスチナ人は住んでいない。なぜならば自分たちが入植地を作っていて、入植地はパレスチナ人を労働者として使っていない。したがって搾取関係にない。我々ユダヤ人の入植地というのはパレスチナ人とは全く関係ないところで拡大していったんだと。

現地に誰もいないから話す相手がいない。つまり対話の相手としてのパレスチナ人はいない。アラブ人はいるけどパレスチナ人はいない。我々が相手にするのはアラブ人の国家であってパレスチナ人とは一切交渉しない。これが基本的な考え方だったわけです。

パレスチナ人の不在というものが1993年のオスロ合意が結ばれるまで続きました。
イスラエルとしてはパレスチナ人は存在しない相手。交渉の必要もないということです。

それ自体がどうにもならなくなったのが1967年の第3次中東戦争です。このときにヨルダン川西岸とガザを占領してしまうんですね。そのときに別の問題が出てきます。ヨルダン川西岸とガザをイスラエルに併合してイスラエルにすると、またイスラエルを建国したときと同じ問題が出てきてしまうのです。人口比率の問題です。
ユダヤ人とパレスチナ人の比率が逆転する可能性がある。そこで占領は続けるが併合はしない、という状態がずっと続くことになります。

ガザとハマス
ガザというのはずっとイスラエルにとってはお荷物なんです。なぜならばガザはずっと抵抗が強かった。そのため占領を続けながら棄民政策が採られてきたのがガザなのです。

もともとガザはイスラムの勢力が強かった。これはエジプトの影響があります。1948年から67年の間はガザはエジプトの占領下にありました。パレスチナ戦争のとき義勇軍をアラブ諸国から入れてきました。このとき一番大きな勢力はエジプトのモスリム同胞団という組織でした。

1987年にインディファーダ(民衆蜂起)が起こります。その時にモスリム同胞団のガザ支部がハマスの母体になっていきます。モスリム同胞団というのはイスラム国家を作ろうという政治結社です。一番重視していたのが草の根的なネットワークを作ること。貧しい人たちを、義援金で支えていくということです。社会福祉的な政策を採っているんです。

これがガザにおいては強力に機能しました。事実上の政府の無策、占領軍の棄民政策に対する抵抗の手段としてモスリム同胞団というのが機能してきたのです。

現在の状況は長い歴史の中で考えていく必要があります。占領という点では例えばシャロンが2005年9月に一方的にガザから撤退します。けれども撤退することが占領の終わりではない。事実上ガザの入り口を管理しているイスラエル軍が、出入りを調整できるわけです。軍隊がいなくなったから占領が終わったというのは形式的な論理です。つまり包囲して封鎖するのも占領のひとつの形態なんです。


臼杵陽日本女子大学教授

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

一方的停戦というのは、「お前らの生殺与奪権はイスラエルにある。交渉はしない」ということのような気がします。優生思想ですか?


posted by iwajilow | 23:32 | 中東に平和は? | comments(0) | trackbacks(0) |
子供たちの上に爆弾が降り注ぐ
今日、JVC(パレスチナ支援を行っている団体)がエルサレムと電話をつないで現地の状況をリポートしてくれました。以下その内容です。


病院は重度の負傷者であふれています。
救急車ですら立ち入りが制限されています。さらに道路や建物が破壊されていて救急車のアクセスが困難になっています。

栄養失調児童の支援を行っているNGO団体の現地代表の家も破壊されました。

彼女の姪は寝るときは外出用の服を着て寝ているそうです。
「殺されるときはパジャマでなくてきれいな服でいたい」からだそうです。

西岸では毎日デモや集会などの抗議行動が行われています。各地の検問所では衝突も起きています。

今日ガザの友人に電話をしました。彼女は封鎖の中で電力が届かないときでも「キャンドルがきれいねぇ」とみんなを元気にしてくれる強い人でした。
その彼女が涙ながら電話で話してくれました。

地上戦が始まってから毎日激しい攻撃が続いています。水がありません。もう1週間以上もシャワーを浴びていません。食料もなく冷たい缶詰くらいしか食べるものがありません。
本当に限界です。

別の女性とも話しました。彼女はコツコツとお金を貯めて去年難民キャンプに家を建てました。その家の隣の家に爆弾が落ち、彼女の家の窓ガラスも全部割れてなくなりました。2階部分はかなり損傷しました。

今は比較的損傷の少なかった1階に住んでいます。

「今ガザでは誰もが標的です。安全な場所はどこにもない」と言っています。

安全な逃げ場が本当にありません。
一般市民の被害は本当に広がっています。12月27日の空爆以来、昨日までの犠牲者は1000人を超えています。そのうちの300人以上が子供で、70人以上が女性です。
負傷者は4500人、そのうち子供は1600人です。

地上戦以来子供の犠牲者は3倍になりました。8割が一般市民という情報もあります。家を追われた人は10万人を超えています。避難民は国連の学校などに避難していますが、そこですら攻撃されています。救急車も15台が損傷し7台は完全に破壊されました。

医療施設も12か所が攻撃を受けました。さらに今朝新たに2か所が孫想を受けたという話が入ってきました。

今日、国連事務総長が現地に到着しましたが、今のところイスラエル軍は攻撃の手を緩めていません。人道支援団体も数時間しか中に入れない今のような状況では実際どれだけの被害を受けているのか全く分かりません。



以前ガザで撮影した写真です。まさに今、この子供たちの頭の上に爆弾が降り注いでいます。








写真には映っていなくて残念なのですが向こう側にはイスラエルの戦車がありました。


真ん中の女の子たちのお兄さんはイスラエル軍の攻撃で崩れた建物の下敷きになった人の救助活動をしているときに、もう1発爆弾が落ちてきて亡くなったそうです。女の子は国際弁護士になりたいと言っていました。
posted by iwajilow | 22:10 | 中東に平和は? | comments(3) | trackbacks(0) |
ガザで何が起こっているのか
ガザでなぜこういうことが起こっているのか、広河隆一さんが日曜日のデモ行進の後のシンポジウムで語ってくださった話がわかりやすいので、その要旨をまとめてみました。

「『報復の連鎖』新聞やテレビの報道の中で『報復』『暴力の連鎖』そういう言葉が出たら気を付けてほしいんです。この『連鎖』という言葉の中にはこの問題がいったいどこから来るのかということは一切放棄した言葉であって、お互いがお互いにやりあっているという言葉になっていて必ず使われる言葉です。

『ハマスは90年代半ばから自爆テロで数百人のイスラエル人を殺害。ガザからロケット弾攻撃を繰り返してイスラエルの報復を招いた』というこれが現在の日本のメディアの一番良心的な場所で書かれている言葉なんです。

なぜこんなことが起こるのか、イスラエルはこれを報復として行ったんだ、その前に何が起こなわれたのか?ハマスが自爆テロでイスラエル人を殺害してきた、ガザからのロケット弾攻撃で大きな犠牲を払ってきた、だから仕方なくイスラエルは攻撃行動をとった。だけどそれはちょっとやりすぎじゃないかというカタチで、自制するように、というのがせいぜいの現在の日本のメディアの報道です。

ハマスは本当に自爆テロで数百人のイスラエル人を殺害してきたのか。僕は大勢の自爆攻撃の、そういう自爆攻撃を行った家族に会って話を聞いてきましたけど、僕が会った限りではハマスの人はいませんでした。いつハマスの自爆攻撃が大きくイスラエルを震撼させるほど起きたのかというとラビン首相と一緒にペレスが和平の交渉をして、ラビン首相がユダヤ人の右翼に暗殺され、そのあとペレスが引き継ぎます。けれども彼は力がないと国民の支持が離れていった。だけど彼は自分が国を守る力があるということを見せるためにハマスの指導者の家ごと爆破して殺害します。そしてイスラエル国民の支持を得ようとする。やはり今回と同じような政治的な支持を獲得しようと思って行われた殺害ですけれども、そのあとで何が起こったか、2か月ほどハマスの人たちが報復のために自爆攻撃を行った。

正面切っての戦いができないことがわかって追い詰められてしまって、しかも世界もそれを封じ込めようとしているときに、そういう人たちを我々が最後の手段としての自爆攻撃に押しやってしまった。

その時に大勢亡くなってその死の責任をだれが取るのか。それに関してはまたテロリストのパレスチナ人ということだけが伝えられて、自分たちがその種をまいているということが一切感じられないような行動にイスラエルはなっているわけです。なぜならイスラエルは自分たちは『悲劇の民』だと、自分たちはホロコーストにあって、今度は自爆攻撃やロケット弾によってひどい目に逢っているんだ。だから自分たちを守るために攻撃をしているんだと。どこで歴史を切り取って自分たちが行動したのかということ、彼らはいつも自分たちがやられたところから話をします。だけど、それが報復なのかどうかということです。

ロケット攻撃によってイスラエルは大変な犠牲者をだして恐怖を味わっている、事実はどうなのか、イスラエル首相官邸のホームページのそこのデータでは2004年から2008年の12月27日の攻撃までの間で犠牲者は10人です。10人のイスラエル人が犠牲者となりました。

このときに何人のパレスチナ人が犠牲になっているのか、これは2006年の1月ハマスが政権をとりました。そしてガザを統治しました。その時からイスラエルの攻撃によって何人が殺されたのか。それを調べたら446人です。

同じ時期で比較すると、イスラエルの犠牲は6人くらいです。しかも今度のこの侵攻がある前の半年間、イスラエル人は誰も殺されていないんです。5月以来、犠牲者は誰もいない。

その間にロケット、ロケットとものすごい悲劇、ほとんど殺されるような犠牲者を出して、そしてアメリカも『これは停戦させることはできない。なぜならあのロケットの恐怖からイスラエル人を解放しなけらばならない』って言ってますけども、実質の数字はこれなんです。

ああいう新聞、ああいう報道をすると、いかにもハマスがひどいことをしていて、イスラエルの攻撃を正当性を支持してしまうようなことが今どんどん進んでいるんです」

新聞の4コマ漫画にこういうものがあったそうです。

「小さな子どもが少し大きな子供を殴ります。それで大きな子供が殴り返す。それを大人が見ていて『100倍にして返しされている。アメリカとイスラエルみたいな親子だなぁ』『笑ってないで止めてあげなよ』よくできた漫画だし、なるほどなぁと思うのですが、最初どうだったんでしょう?小さな男の子が殴ったことからスタートしたんでしょうか。これは全部そんなふうに思わせるようなニュースと解説が日本中にあふれているからなんです。こういう考え方見たらパレスチナ人たち、ああいう状況に置かれているパレスチナ人はどんな思いでそれを見るのでしょうか。

現在イスラエル側の被害者は約24人になっていますけどそのうちの4人は自分の軍隊からの誤爆です。そうすると20人になる。そういう状態で現在戦争が行われている。
現在この状況を伝えるメディア、テレビとか新聞がなぜこういうことが起こってきたのか、この人たちはなぜここにいるのかということをほとんど伝えない状況になっています。

61年前にイスラエルが建国されて、そしてパレスチナ難民が発生した。単にイスラエルという国を作ろうとして戦争が起こって難民が発生したんじゃない、ということが最近分かってきたんですね。ユダヤ人の学者たちが、少しずつイスラエルの軍の中にあった資料を取り出して発表していくということが一時あったんです。今はほとんどありませんけど。

そこであの戦争での難民というのは意図的に計画的に作りだされたということがわかってきました。

どういうことかと言いますと、まずこういう風に考えたのですね、国連はパレスチナをユダヤ国家とパレスチナの2つに分割する案を作った。この案通りにするとユダヤ国家の中に住んでいる人の半分近くがパレスチナ人だと、これでは自分たちの国家建設がうまくいかない。だからこの人たちは出て行ってもらわないといけないとイスラエルは計画するわけです。つまり最初から難民を作りださなければユダヤ人の国家イスラエルは成り立たないと考えて、そのためにD計画という計画が発動されます。パレスチナ人たちは追放しなければならない、追放したら帰ってこないように直ちに破壊する。そういうことが命令になっています。そういうことが行われているのに世界中は実際何が起こっているのかということを60年間封印したまま、経ったんですね。これはイスラエルだけの責任ではないです、世界中の人間、われわれも含めた責任だと思います。

こういうふうにして(パレスチナ人から)NAKBAと呼ばれる大惨事が1948年だけじゃなくてどんどん繰り返されていくわけです。そしてとにかく追放しよう、何でもはいはいという自分たちに都合のよい傀儡政権みたいなものを(パレスチナに)作っていこうと、そういうふうになるわけですね。

イスラエルの言うことははいはいと聞く、自分たちの主権は望まない、まして自分たちが故郷から追い出されたことも自分たちは戻りたいなんてことは言わない。自分たちの権利を回復しようとする、自分たちが弾圧されていて自分たちが抵抗する、自分たちが占領下に置かれていたら当然抵抗しようとする、封鎖されていればなんとかそれを解除しようとする。それは和平に反対する勢力だとするわけです。

和平という言葉も、われわれのメディアの中ではごまかされてしまっています。

僕はハマスの指導者に会ったんですけども、その一週間後に殺されてしまいました。彼は『自分たちは抵抗すらできないのか』と言っていました。
それと同じ時にジハードの指導者にあった。彼ら自分たちは『イスラエル国家を受け入れる用意がある』と発言していました」

彼らは「根っからのテロリストで殺害を目的にする集団だ」としたいのはイスラエル側だと広河さんは言います。そういう人の掃討を大義名分に侵攻をしていくので平和になったら困るというわけです。

「(イスラエルは彼らに)イスラエルの存在なんて認めてほしくないわけです。そういう理由で彼らはハマスを殺害する。『何も要求しないパレスチナ人になりなさい』と。しかしパレスチナ人も自分たちの尊厳を売り渡すことはできない、すべてを『はい、わかりました』なんて言うことはできない。現在この状況の中でパレスチナの人々の支援に回ることは当たり前のこと」だと広河さんは言います。そういうことです。
posted by iwajilow | 02:09 | 中東に平和は? | comments(0) | trackbacks(0) |
虐殺を止めてください
今日、イスラエルによるガザ攻撃反対のデモ行進が行われました。

1500人(主催者発表)の人が参加しました。













デモ行進の後、教会で集会が行われました。こちらにも400人以上の方が参加し、入りきれないほどでした。



「今日のこの行動が世界を変えるうねりとなっていきますように」と黙とうが捧げられ、その後シンポジウムが行われました。

そこではガザのパレスチナ人への電話インタビューが公開されました。

インタビューに答えたのは3人の子供の父親でジャバリヤ難民キャンプに住むザヘル・スバイさん(35)でした。彼の家はこの一連の攻撃で破壊され、今は祖母の家に身を寄せているそうです。

「私の家も攻撃されたので今は祖母の家に避難しています。でも私だけではありません。50,000人の人が新難民となり公園や学校に避難しています。今は冬で気候も悪く非常に厳しい状況です。本当に悲惨な状況で表現できないくらいです。

小麦粉もパンも不足しています。私の子供の一人がインフルエンザなんですが危険で病院にも連れて行ける状況ではありません(たとえ連れて行ったとしても薬も何もない状態だと言います)。子どもたちは毎日おびえています。本当に町全体が攻撃されています」



悲惨な現状の報告もされました。

国連は現在安全を確保できないとしガザ支援は一時停止している。
ガザ市内は電気もきれいな水も届いていない。市民が家庭で備蓄していた食料も底をつき始めている。食料を手に入れるのも安全保障上難しく、たとえ手に入れたとしても調理するガスがない。

今日の16時には崩れた建物から50人の遺体が発見されたそうです。

国際赤十字社は死んだ母親の遺体のそばに弱り切った子供たちがいるのを発見しました。床には12人の遺体もあったそうです。

救急車もイスラエルの攻撃を受けています。


以前、パレスチナに行った時、外出禁止令が出されているときの話を聞きました。

「イスラエル軍による外出禁止令が出ているときは、全く外に出ることはできない。イスラエル軍は動くものは何でも撃つ。家の中でも窓に人影が写ると撃つ。だから家の中も腰をかがめて、這うように動かないといけないんだ。そういう状況が何日も続くんだ」


すでに800人以上が殺されているといいます。そのうち3分の1が子供です。

対してイスラエルの犠牲は20人ほどです。

もう、いい加減にしてほしいと思います。

posted by iwajilow | 22:51 | 中東に平和は? | comments(3) | trackbacks(0) |
ガザ攻撃はパレスチナの自業自得なのか〜NAKBA試写会にて
8日夜、広河隆一さんのパレスチナ取材の集大成、「NAKBAアーカイブス版」の完成試写会がありました。300人の会場は立ち見が出るほどの盛況でした。

NAKBA(ナクバ)
1948年イスラエルが建国され70万のパレスチナ人が難民になった。そのときの大虐殺をナクバ-NAKBA-という―NAKBAより


全30巻45時間というものすごい記録なのですが、今日はそのうちの序章だけ(それでも1時間以上)が披露されました。

さすが日本でおそらく日本で最もパレスチナを取材し続けていると思われる広河さんの作品だけに、横綱相撲というか、この序章だけでもズッシリきます。

「みんな背中合わせに整列させられて、次々と殺されていったんだ」というようなパレスチナ側の証言やパレスチナの街を破壊していく戦車、殺された人々の遺体。。。

そして「このNAKBAというのは1948年に起きたという歴史的な事件ということではなく、現在まで60年間ずっとつながっている」という現実。

板垣雄三氏(東京大学名誉教授・中東学会元会長)が完成に寄せたあいさつの中で「今、現実に起きているのは重武装の軍隊が全く一般の市民生活に襲いかかっているということ」と話していました。

そして広河氏は
「今起こっているのは戦争じゃない。圧倒的な軍事力を誇るものが民衆の間に爆弾を落とす、それを戦争という言葉でごまかしてきた。『暴力』とか『連鎖』とか、そういう言葉が使われるけど、なぜそういうことが起こっているのかすべて隠してきた」
とパレスチナとイスラエルを対等にあるいは、パレスチナを悪と伝えるメディアに対して怒ります。


「『ハマスは90年代半ばから自爆テロで数百人のイスラエル人を殺害。ガザからイスラエルへのロケット弾攻撃を繰り返し、イスラエルの報復攻撃を招いた』と新聞にも書いてあった。『原因はすべてハマスにある』と伝えている。そういうことがいまだに伝えられている。片方だけの正義、片方だけが被害者だと言っている。

新聞に書くのならきちんと調べてほしいと思う。僕の持っているデータでは、ガザにハマス政権ができた2006年1月以来この攻撃の起こる2008年12月までの3年間の間、ハマスのロケット弾で死んだイスラエル人は17人。

イスラエルからの攻撃で殺されたパレスチナ人は446人。そして1月8日現在(APによると)この攻撃で死んだパレスチナ人670人以上、イスラエルの死者は10人。

それがどうしてああいう記事になるのか。

ガザの難民はなぜこうなったのか、新聞は一行も書きません」


超満員の会場


この機会に僕が2004年にパレスチナに行った時の写真をアップします。

このときに行ったのはヨルダン川西岸地区です。壁が大きくパレスチナ人の土地をえぐりながら建設されていました。壁ができるとパレスチナ人は自分の土地であっても行けなくなります。

そして街を移動するには常に厳しい検問を通過しなければなりません。

60年以上こういった占領下に置かれています。











posted by iwajilow | 23:07 | 中東に平和は? | comments(3) | trackbacks(0) |