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TVディレクターがメディアでは伝えられないニュースの裏側を日々レポート。
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東條由布子さんの告別式に行く
JUGEMテーマ:日記・一般

昨日、幡ヶ谷にある代々幡斎場で東條英樹氏の孫の由布子さんの告別式があり参列しました。

100人ほどの方が参列されていたように感じます。
弔辞はWillの編集長の花田紀凱氏が読まれました。

喪主はご主人でした。
喪主あいさつの中でご主人はこう言っていました。

「小さいころ過ごした伊豆が好きで、よく遊びに行っていました。
前日までどんな雨が降っていても伊豆に行くときになると
ピタッと雨がやみ『私は晴れ女なのよ』と笑って言っていました。

2月13日、亡くなる時も『晴れ女』にふさわしく
いい天気でした」

由布子さんがチャキチャキした感じで
『晴れ女なのよ』っていう姿が想像できます。

気軽で、明るくていつも元気な方でした。

「ご苦労様でした」。
参列した人たちが口々にそう言って手を合わせていました。

目を真っ赤にした娘さんがスヤスヤと眠る赤ちゃんを抱いていました。

ご冥福をお祈りします。




出棺



 
posted by iwajilow | 11:28 | 合掌… | comments(1) | trackbacks(0) |
東條英機氏の孫・由布子さんの死
JUGEMテーマ:日記・一般


今朝、新聞を見てビックリしました。
あの東條英機氏のお孫さんの由布子さんが亡くなったということです。
僕は由布子さんとは思想的には全く共鳴しませんでしたが
人間的にはとても好きな方でした。


東條由布子さん(東條英機・元首相の孫)が死去
読売新聞 2月15日(金)15時3分配信

 東條由布子さん 73歳(とうじょう・ゆうこ、本名・岩浪淑枝=いわなみ・よしえ=東條英機・元首相の孫)

 



今から十数年前、僕がまだディレクターになりたての頃、僕は由布子さんを含め東條家の方を取材しました。 東條家の人々が戦後、どのように生きてきたのかとというドキュメントを作るためでした。

その時に由布子さんと弟の英勝さんを取材させていただきました。正直、僕は戦争は大嫌いです。いかなる言い訳があろうとも正義のための戦争なんてありえないと思っています。そして戦争を始めた東條英機なる人物にもそうとうな嫌悪感を抱いていました。

そういう中での取材だったのですが、由布子さんにこんな話を聞きました。

戦争が終わった当時の話です。東條家の人々は用賀の家を後にして伊豆に逃れました。
その伊豆で何が起こったのか?転校先で由布子さんは先生にこう紹介されました。「この人のおじいさんが日本人をたくさん殺したのです」。

直ぐにその町も後にしました。行く先々で身元を隠しました。しかし東條英機の孫ということが知れると、石を投げられたり、その当時高級だった卵を投げつけられたりしたこともありました。3日も経たないうちに移動しなければならないこともあったそうです。

僕はこの話を聞いた時に、ひどい話だと思いました。
孫には何の罪もないと思いました。

しかし、しばらくして、本当にそうだろうかとも考えました。

戦争で夫をあるいは父親をあるいは恋人をあるいは子供を亡くした人にとって、
東條家は末代まで許せないと思っても無理はないのではないだろうか、と考えました。
その被害は、本人だけにとどまらず、一家を滅ぼしてしまったのかもしれない。
どんな苦しみの中死んでいったのか?原爆は?東京大空襲は?特攻隊は?戦災孤児は?戦陣訓のためにどれだけ多くの人が玉砕したのか?
孫は関係ないだろ、というのはきれいごと、建前だろ、とも思いました。

でも、今はこう思っています。
その人のために100万人死のうが、1人死のうが、残された遺族にとっての苦しみの大きさは変わらない。交通事故に巻き込まれて、失ったとしても、銃撃で殺されたとしても残された者にとって失った大きさは変わらない。

どういう形であれ、納得はできないし、許すことはできない。

であるのであれば、1人殺した人間の家族は許せても1万人殺した人間の家族は許せない、ということではないはず。遺族であれば、犯人が何人殺そうが関係ない。自分の最愛の家族を失ったことは変わりないのです。だとしたら、「1万人殺し」の家族も、「1人殺した犯人」の家族も同じではないのか。

犠牲になった人数によって「犯人の家族」に対する気持ちが変化してはいけないのではないのではないか。

ましてやその殺人者の子供や孫はほとんど関係ないのではないか(ただし、どういう形であれ、その殺人者の家族が殺人者の犯罪行為によって得た富でのうのうと暮らしているのは違うと思います)


だから結局、東條さんのお孫さんに対してもこう思うのです。

孫に罪はない。

でも、難しいですよね。僕は自分の出世のために平気で誤判を繰り返す裁判官の家族ですら、許し難い存在です。もしあったら嫌みの一つでも言ってやりたくなります。それが自分の家族を死に追いやった人を赦す、っていうのは本当に厳しいです。僕も当事者でないから言えるのだろうけど逆に当事者でないからこそ、そう言い続けないといけないのではないかとも思います。

合掌。。。

(17日加筆訂正しました)

posted by iwajilow | 21:14 | 合掌… | comments(1) | trackbacks(0) |
杏樹さんの夫の告別式に行く
130214_1150~01.jpg
今まで、鈴木杏樹さんの夫の告別式に参列していました。

会場の入り口に生前の写真が何枚も飾られていたのですが、そのうちの一枚に見入ってしまいました。

杏樹さんが結婚した当時、みんなで集まって家飲みをしていた時の写真でした。もう10年以上前の写真です。みんな無敵で僕は根拠もなく可能性ばかりを信じていました。ホンタ君がいる、アチチさんがいる、ツェツがいるハラデさんがいる、スジセさんがいる、マキちゃんがいるスクイさんがいる。そして真ん中に先生と杏樹さんがいます。みんな弾けるばかりの満面の笑顔です。こんな日がくるなんて夢にも思っていなかった。

まだ56歳。あまりにも早い死に愕然とするばかりです。

合掌…。



posted by iwajilow | 13:19 | 合掌… | comments(1) | trackbacks(0) |
杏樹さんの夫
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先ほどネットニュースを見ていてビックリしました。

鈴木杏樹の夫急死、手術目前に容体悪化

サンケイスポーツ 2月3日(日)6時0分配信

 女優、鈴木杏樹(43)の夫で外科医師のAさんが1日、内臓疾患のため米国の病院で亡くなったことが2日、分かった。57歳だった。 
 関係者によると、Aさんは数年前から内臓疾患を抱えていたが、大学病院の外科部長として精力的に診察、手術をこなしていたという。多くの患者に頼りにされる名医として多忙だったが、1日も早い現場復帰を目指し、治療のために渡米。だが、手術を目前に容体が急変し、入院先の異国で帰らぬ人となった。 
 杏樹側に愛する夫の訃報が入ったのは、金曜日のメーンパーソナリティーを務める1日の日本テレビ系「ZIP!」の生放送中。本番中で本人に伝えられたかは不明だが、もし事実を把握していたとすれば、結婚して14年の伴侶を失った悲しみを胸に秘め、番組終了まで気丈に司会を務め上げたことになる。そして、翌2日の飛行機で夫が待つ米国へ駆けつけ、無念の対面を果たした。
 杏樹の所属事務所はサンケイスポーツの取材に「亡くなったことは事実です」と認め、葬儀・告別式について「詳細は後日、改めて発表します」とコメントした。


僕は報道番組を担当する以前は、バラエティー番組のディレクターでした。その頃はタレントさんやメイクさんたちとよく飲んでいました。

特に鈴木杏樹さんとはメイクさんが隣に住んでいた関係もあり、よく飲んでいました。もちろんご主人とも何度か一緒に飲みました。いつもウチ飲みで、皆でつまみを持ち寄ったり、鍋をつついたりという感じでした。杏樹さんのご主人にとってはみんな年下の連中でしたが、医者ということを鼻にかけるわけでもなく、威張るわけでもなく、みんなに料理をふるまったりもしていました。特に卵焼きが絶品でした。

卵をといだ中に出汁の素と砂糖を入れ水をたして焼くだけの卵焼きでしたが美味しい、美味しい。

今夜は教えてもらった卵焼きを作りながらご冥福をお祈りしたいと思います。


 



 
posted by iwajilow | 10:10 | 合掌… | comments(2) | trackbacks(0) |
山本美香さんの死に思う
JUGEMテーマ:日記・一般
 
シリアで亡くなった山本美香さん。
どんな思いだったろうと想像してしまいます。
もちろん彼女の経歴に比べれば僕なんて比べるのもおこがましいのですが、
ちょっとだけ紛争地帯にもいったことがある人間として想像させてください。

山本さんはそんなことはなかったのだろうと思いますが
僕はとても怖がりでビビり―なので
紛争地帯に行くときはいつも怖くてたまりません。

アフガニスタンに向かう飛行機の中でも
「あー、なんでこんなとこ来ちゃったんだろ、まいったなぁ」と思っていました。

行ってしまえば、行ってしまったであまりに取材すべきものが多くて
怖がるヒマもないのですが、行く前はその恐怖を乗り越えるのが大変でした。

でも、なんで、そんなに怖いのに行くのか?
それは大金がもらえるとか、そういうことではありません。
大抵の場合、紛争地帯の仕事は、そんなに買ってくれるところもなく
お金にはなりません。
それではなぜ、行くのか?
自分が行って伝えなければいけないのだ、という大義を思い、僕はなんとか恐怖を乗り越えます。

パレスチナを取材しているときに
12歳くらいの男の子が頼んでもないのに町を案内してくれました。
最初は、小遣い稼ぎなのかな、と思ってあまり相手にしなかったのですが
話している内容が強烈でした。

ここは僕の友達が住んでいた家なんだけど、
イスラエルのアパッチ(武装ヘリ)が来て、銃撃されて友達は殺されたんだ。

ここは僕の兄さんが殺された場所なんだ。。。

銃撃を受けた家を1軒、1軒案内してくれました。
最後、お金を要求されるのかなと思ったけど全く要求されませんでした。
そして彼は、僕にこういいました。

「ここで何が起こったのか、日本の人たちに伝えてください。そして僕たちのことを忘れないで」

紛争地帯にはこういう思いの人たちがたくさんいます。

武器もお金もない自分たちはたくさんの人に訴えるしかない。
ここで死んでいった仲間たちの無念を世界の人に伝えてほしい。
ここで何が起こっているのか知ってほしい。
ここで僕らがどんな思いで生きているのか知ってほしい。。。

そう思うと行かないわけにはいきません。
知ってしまったのだから仕方ない、と思います。

もちろん実際に殺されるかも、と思う場面もあります。

僕も戦後のイラクを取材中、車で移動していたところ、その車を銃を水平に構えた米兵たちに取り囲まれたことがあります。
これだって、もしまかり間違って発砲されていたら僕は死んでます。

パレスチナのガザ地区を取材中にイスラエル軍の戦車がこちらにむかって銃撃してきたこともありました。これもあっという間の出来事で、まかり間違ってあたっていたら死んでるかもしれません。

紛争地帯を歩いたことのあるモノなら多かれ少なかれみんな経験していることだと思います。というか、軍に拘束されたり、ゲリラ側に拘束されたり、みなさんもっとヤバい目にあっています。だからある種の覚悟はあったと思います。覚悟はあっても死のうとは思っていません。僕の場合はそうなっても仕方ないって思う諦めのようなものです。

でも生きて帰って、伝えてこそジャーナリスト。
それはみんな思っています。

彼女にはたくさん、たくさん伝えたかったことがあったのだろうと想像します。
無念だっただろうと思います。
怖かったろうと思います。

それでも命を賭してでも伝えなければならないものがある。

本当、そうですよね。
何にも出来てない自分が恥ずかしい限りです。。。



posted by iwajilow | 10:08 | 合掌… | comments(3) | trackbacks(0) |
最期まで闘い続けた弁護士…49歳の壮絶死
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以前、このブログでもお伝えした故・日隅一雄弁護士の「偲ぶ会」が今日開かれました。

http://blog.iwajilow.com/?eid=1071377

僕は、もんじゅ「自殺」事件、中国人研修生射殺事件などでお世話になりました。
その他にもNHK番組改編事件やグリーンピース鯨肉事件などでも常に弱者側に立ったスタンスで弁護を続けていました。

そして何よりも原発事故以降は東電の記者会見に連日通い続けました。東電に鋭い質問を浴びせ続けることで真実を明らかにしていこうという姿が目に焼き付いています(この記者会見を日隅さんは「検証 福島原発事故・記者会見――東電・政府は何を隠したのか」という本に著しました)。しかもこの頃、日隅さんは末期の胆のうがんで余命半年という告知を受けていたのです。

なんと壮絶な生き方なのでしょう。


会場にはざっと1000人以上の方がお別れにいらっしゃっていました。
同じ事務所で原発訴訟の海渡弁護士をはじめ、霊感商法の紀藤弁護士、横浜高島屋痴漢えん罪事件の岡田尚弁護士、小林さん痴漢えん罪事件の田場弁護士、原発民衆法廷の田部知江子弁護士、サラ金被害、日弁連会長の宇都宮健児弁護士、西武線痴漢えん罪事件の岡崎弁護士、戦場ジャーナリストの綿井健陽さん、「トヨタの闇」の林克明さん、「大津波の後で」の森元修一監督、エッセイストの落合恵子さん、もんじゅ裁判の西村さん…僕が仕事でご一緒させていただいた方だけでもたくさんの方をお見かけしました。



亡くなった6月12日に日隅さんから連絡を受けて救急車を呼んだ弁護士さんがその一部始終を話してくださいました。

前日の夜、日隅さんの調子が悪いという連絡を受け、弁護士さんは日隅さんの自宅へ向かったそうです。

すると4階の部屋に上がって呼び鈴を押しても返事がない。寝ているのかと思ったけどももう一度、呼び鈴を押すと返事があったそうです。ただ声は小さく「眠っていた」と思ったそうです。

「眠っていたわけではないですから大丈夫ですよ」と出て来た日隅さんはひどく顔がむくんでいました。弁護士さんは「今日はずっと事務所で仕事をしているので何かあったら連絡をください」と言い残し自宅を後にしたそうです。

徹夜で仕事をしていても、日隅さんから連絡は来ませんでした。すると「もしかしたら夜電話するのを遠慮して朝になるのを待っていたのかもしれない」と朝の6時半に日隅さんから携帯に電話が入りました。

「痛みがひどくて耐えられないので、病院に行きたい」。
救急車を呼ビましょうと、弁護士さんも自宅へ駆けつけました(事務所から自宅までは歩いて3分ほどだそうです)。
すると椅子に座って突っ伏している日隅さんがいました。この頃、日隅さんは痛みがひどくてベッドに横になることもできなくなっていたそうです。

救急車はベッドを持ってきたのですが、やはり横になれない。そのベッドを縦にして運んだそうです。

日隅さんは救急車の中でも横に座りたいっていっていたそうです。弁護士さんも「この人は椅子の上でないと眠れないんです」と言ったそうですが、安全上の理由から聞き入れられませんでした。

病院に付いた時、弁護士さんも日隅さんもこの日に亡くなるとは思っていたなかったといいます。

「『パソコンいりますよね?』と言ったら『お願いします』って言っていました。ここでも原稿を書くつもりでいたんですね」

しかし、医者にはこう告げられたそうです。
「もう何日持つという状態ではなく、何時間持つかという状態です」。

ガンが腸の壁を破って腹膜炎を起こしている状態で「もう打つ手がない」と言われたそうです。

そして夜8時28分、日隅さんは眠るように亡くなっていきました。



 
posted by iwajilow | 20:59 | 合掌… | comments(3) | trackbacks(0) |
日隅一雄さん、原田正純さん…
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政府や大企業のウソを暴いてきたお二人の方が相次いで亡くなりました。

通りがけさんがコメントしてくださったように
一昨日の夜に日隅弁護士が亡くなりました。まだ49歳でした。
覚悟はしていたといえ、いざ現実のものとなると言葉もありません。
弁護士・日隅一雄さん死去
   2012年6月13日 東京新聞朝刊
 昨年三月の東京電力福島第一原発事故直後から、政府や東電の責任を追及してきた元新聞記者で弁護士の日隅一雄(ひずみ・かずお)さんが十二日午後八時二十八分、入院先の東京都新宿区河田町八の一の東京女子医大病院で死去した。四十九歳。昨年五月、末期胆のうがんで余命半年と告知されていた。広島県出身。
 京大卒業後、産経新聞記者を経て一九九八年に弁護士登録。第二東京弁護士会に所属。NHK番組改変訴訟や沖縄返還密約情報開示訴訟などに携わる一方、弁護士やジャーナリストらで設立したインターネット市民メディア「NPJ(News for the People in Japan)」編集長を務めた。
 十二日に亡くなった日隅一雄さんは、弁護士として「表現の自由」や「知る権利」の実現に奔走する一方、ジャーナリストとして福島第一原発事故の問題を追及し、ブログなどで発信を続けた。東電や政府の記者会見に足を運んだ数は延べ百回以上に上る。
 会見への出席は「市民に必要な情報がきちんと出ていない」との危機感を募らせたことが発端。既存のメディアにも問題を突きつけていた。
 今年二月、東京新聞のインタビューでは「今は政策決定が官僚主導。『主権在官』になっている」とし、国民が情報を得にくい制度に問題があると指摘。「市民が情報共有して主権を行使できる社会にし、日本に実質的な民主主義を根付かせなくてはいけない」と強い口調で説いた。

日隅さんは出版パーティーにお伺いしたのが最後となりました。

話しをさせていただいたのは、去年の原発事故のあとになると思います。
原発関連の取材をしているときに、相談にのってもらいました。
資料を送って意見を聞こうと思っていたのですが
体調が悪いので電話での話しでかまわないか?と連絡があり電話で話しをしたのが最後でした。
もんじゅ裁判や、警官による中国人射殺事件など、正義感に溢れる弁護をされる方でした。

12日の朝、調子が悪くなり救急搬送されその日の夜に亡くなってしまったということです。
通夜、葬儀は近親者だけで行われるということでした。

偲ぶ会は7月22日に行われるということです。

11日には水俣病の原田さんがお亡くなりになりました。
原田さんとはGW前に、電話で話しをしたばかりだったので驚きました。
そのときはとても元気で、「ある地域で水俣病に似た症状の患者さんがいるということなので
行ってみなければと思っているんですよ」と話していました。
まさかこんなに早く亡くなられるとは思ってもいませんでした。
 
原田正純さんの人柄や功績しのぶ 「お別れ会」営まれる
  水俣病研究や患者の支援に尽くし、11日に急性骨髄性白血病で亡くなった熊本市の医師原田正純さん(享年77)の「お別れ会」が14日、同市東区で営まれた。原田さんがその存在を立証し、半世紀にわたって交流を続けた胎児性水俣病患者の人たちや、患者の支援者らが集い、原田さんの人柄や功績に思いをはせた。
 会が始まる前、会場の入り口近くに原田さんのひつぎが開いた状態で置かれ、弔問に訪れた患者らが原田さんの顔を見つめたり、手を合わせたりして最後の別れをしていた。
2012年6月14日17時0分 朝日新聞
僕らが政府や役所がいかにいい加減でうそつきであるかということを
知ることができたのはこの方々の功績によるところがものすごく大きいと思います。
お二人とも正義に生きた方でした。

どうぞゆっくりお休みください。
posted by iwajilow | 00:56 | 合掌… | comments(3) | trackbacks(1) |
ありがとう、お疲れ様でした。
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昨日、今日と祖母の通夜、告別式でした。
昨日は寝ずの番ではないですが。通夜会場に泊まりました。

祖母が亡くなったのは1月6日午後2時15分。
大正4年生まれの96歳でした。1世紀近く生きてきたわけです。

大正デモクラシーの時代から、戦争、高度経済成長、さらにはバブルとその崩壊、政権交代まで経験しているのですが、祖母からそういった話はほとんど聞いたことはありませんでした。

豪快に笑う人でした。
きっとその時々の時代を豪快に笑い飛ばしながら生きてきたのだろうと思います。

痴呆はありましたが、身体はいたって健康でした。
1月5日には元気に話していたそうです。

1月6日に、ちょっと調子が悪そうにしていたので、酸素吸入器をつけようとしたら
「オレはこんなものいらねぇんだ」と自分で外してしまったそうです。

そして突然、静かになったかと思うと眠るように逝ってしまったとききました。
老衰、でした。

「最後まで、この人にはビックリさせられたよ」と祖母を看取った叔父は話していました。

そして、そんな祖母がいたから僕も存在してます。

僕は長男の長男で初孫だったのでものすごくかわいがられていたそうです。
葬儀の間も親せきからそんな話ばかりを聞きました。

荼毘にふす前の最期の見送りの時、手を合わせると「ありがとう」という言葉が自然に出てきました。

そして火葬場の方が棺を火葬炉に入れる時、「お疲れさまでした」と祖母を送ってくださったのが
心にすとんときました。

本当に、長い間、お疲れさまでした。。










posted by iwajilow | 21:41 | 合掌… | comments(0) | trackbacks(0) |
祖母の死
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昨日、被災地から帰京する新幹線の中でいわぢろうの父、チチぢろうから電話が入りました。
「ばあちゃんが危ないらしい。今向かっていることろだけどすでに酸素吸入器をつけているらしい、まぁ分からないけど」。

このチチぢろうの言葉というのはどこまで信用していいのか、実はなかなかのクセモノです。

僕がまだ小学生の時、チチぢろうは僕が寝ている部屋のドアをガバッと開けたかと思うと
「実は俺は脳腫瘍なんだ」と言い残して行ってしまいました。「脳腫瘍…それは大変だ」と当時思ったのですが、あれから30年以上経ってもチチぢろうの「脳腫瘍」は悪化の兆しを見せていません。

また、いとこの結婚式ではこんなことがありました。
チチぢろうはスピーチを頼まれました。「二人にこんな英語の格言を送りたいと思います。ローマは一日にしてならず、ボーイズビーアンビシャス」。…ん?

頭を掻きながら席に戻ってきたチチぢろうは「アメリカ長かったから英語でやればよかったかな」と言っていましたが、チチぢろうは2週間のアメリカ西海岸ツアーしか行ったことがありません。
(ちなみにこの従妹夫婦は間もなく離婚しました)

そして、もう亡くなってしまいましたが、チチぢろうの父、ジジぢろうもクセモノでした。なにせその死に方というのが70才を超えてバイクに乗っていて乗用車に激突するという自爆死でした。

何をするかわからない人たちなのです。

そんな事を考えていると再び携帯電話が鳴りました。
「亡くなったよ」。

さすがにチチぢろうでもこれはウソではあるまい。念のため叔父に連絡するとやはり亡くなったということでした。

ばあ様は96歳でした。大往生です。
晩年はボケてしまい僕が行ってもチチぢろうと間違えられ「息子(「つまり、いわぢろう)は大きくなったか?」ととんちんかんなことを聞かれたり、壊れたレコードのように何度も同じ話をリピートしていました。

僕は初孫でした。そしてばあ様ッ子でした。幼稚園に上がる前はばあ様の家に1年近く預けられていたそうです。そしてばあ様の布団にもぐりこんでは寝ていたそうです。

ばあ様はスナックをやっていました。家とスナックは台所が共有されていました。台所の横にある小さなくぐり戸を抜けるとスナックのカウンターに出るようになっていました。明るい台所の脇のくぐり戸を抜けると薄暗い大人の世界が広がっていました。僕はこのくぐり戸を抜けるのが大好きでした。

そしてよくスナックのカウンターの上に乗ってはその当時流行っていた「黒の猫のタンゴ」(古っ)や「帰って来たヨッパライ」(もっと古っ)などを踊っていました。

ばあ様は80近くなってもこのスナックをお馴染みさんのために開けていました。「スナック養老院」だと言われていました。しかしだんだんとなじみ客もいなくなり、店も閉めることになりました。そして痴呆が進んだと言います。

そしてそのばあ様の家は以前、このブログでも紹介した通りあの震災で壊れました。聞けば町内で唯一壊れた家だったそうです。ばあ様の家の直下だけ揺れが激しかったとは考えづらいので、よほどボロボロだったのでしょう。しかし、今思えばこれも狙いだったような気がしてなりません。

来週、葬式があります。チチぢろうが突飛な行動に出ない事を願わずにはいられません。。。



 
posted by iwajilow | 15:18 | 合掌… | comments(0) | trackbacks(0) |
「落語は業である」…さらば談志師匠
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この国は本当に弱い者いじめが好きで、
年金減額なんて、まさに「文句を言わない弱いものから取る」の典型でしかありえません。

野田政権の正体見たりです。

もんじゅは「1兆円が無駄になる」と阿呆な事を言って続けるくせに
貧乏人からは金を巻き上げる。

あの日本原燃の人たちの給料ってものすごい高額ですよ。
そういうところには一切メスを入れないあたりも素敵です。

そういう中、談志師匠が亡くなりました。

僕は談志師匠の落語好きでした。
本当に上手でした。

落語は「業」だ、と言っていました。
世の中の厭らしいものを集めたものだ、と。

僕は談志師匠のジョークも好きでした。
独演会ではよく、マクラでこのジョークを披露してくれました。

その中からお気に入りのジョークを一つ。

子沢山の男が失業しましてね、職安に行ったんですよ。
それで面接官にこう言いました。
「あっしには子どもが13人おりましてね」
「それで、他に出来る仕事は?」


合掌…。
posted by iwajilow | 10:26 | 合掌… | comments(0) | trackbacks(0) |